夢の続き

東方神起、SUPERJUNIOR、EXO、SHINeeなどのBL。
カテゴリーで読むと楽です。只今不思議期。

『死の夢』東方神起の短編(チャンミン記念企画)


鷹狩りじゃ、鷹狩りじゃ。
兄が唇の端に泡を出しながら、着物の前を開けたまま飛び出した。
土壁で冷えて暗い内から、一気に太陽の下へ出た。
真夏の背の高い草が、ところどころに黄色や白の花をつけて繁っている。
その中を垢だらけの裸足が駆けた。
「戻れ、戻れ」
染みをつけた、汚れた裾を凧のようにさせ、緑の中を飛び回る兄を追う。
暑さではなく、汗が噴き出している。心臓が可笑しいほど鳴っている。
土埃をかぶって、はり付いた髪の毛が、日の光の中ではより汚く見える。
鮮明なのは夢ではないからだ。夢ではないと思うのはもう一人の自分をどこかで知っているからだ。
けれど今は、あの白痴の弟で、この国に捕らわれてしまったのだ。
「戻れ……戻れ」
息が切れ、柔らかな草原の向こうに輝く白馬に向かう兄に、ひりひりと乾く喉で言う。ここ最近の強い日照りで、井戸水が底をついた。
山の中にある小川から汲んで来るしかなかったが、今日の分を兄がひっくり返してしまったのだ。
鳥の囀るのどかな草原に、高らかな笑い声が聞こえた。
色鮮やかな鞍をかけた白馬に跨る、小判のように光る引両紋の着物を装った男の高らかな。
日よけの大きな笠をかぶり、後ろの従者達と笑っている。
駆けて来る、半裸の兄を。
自分と同じ、際立つ高さの背で、腕を一杯に振り上げ、「鷹狩じゃ、鷹狩じゃ」と走る背中を見ながら、母のいつもの文句を思い出した。
「お前だけが頼りだよ」
村でも人一倍、働き者の母が今、朝に自分が汲んだ水を、汲み直しに行っている。
「くじ引き将軍じゃあ」
村人達も、陰ではこぞってそう呼んでいた名前を、兄が叫んだ。
笑い声が止んで、見ると、両手を振り上げた姿で動かなくなった身体に、長い矢が刺さっている。
緑の中にぴゅっと赤い血が、鼓動に合わせ、矢じりの出た着物の背から噴いた。
中心を射抜かれてまだ状況が分かっていない兄に、足を止め、声を出そうとしても出ない。
大きな自分の口をぱかぱかと開いて、あれを可愛がっていた母親のことを考え視界がぼやけた。
しかし、もう一度獲物を狙おうと、弓が引かれたのを見て、「お慈悲を」と叫び、また走った。
自分もわらじなんて履いていない。土の付いた足で草を蹴りながら、ぼんやりした兄の前に飛び出て、左耳に、風を切る音を聞いた。
頭が片側だけ重くなった。
草っぱらに落ちた影には、こめかみから突き出た矢もうつっていた。それから、兄の時より大きく噴き出しているのも。
強い日差しの下、影はゆっくり揺れて、何も見えなくなった。
一つ目。
「せんじゅうご。せんじゅうろく。せんじゅうなな、はい次言って下さいよ」
「チャンミン。あれ何だろう」
この国に長く住み着いたことがあった。デビューと同時に本国では人気を高めたが、早々に海を挟んだ隣国で無名から地方周りをした。
まだメンバーが五人だった頃で、一番年下だった。日本語の上達は早かったが、コンビニエンスストア一つ行くのも緊張し、けれど、それだけが楽しみだったほど、面白いことなど何もなかった。
ここで売れなければいけない。
待っている家族やファンに胸を張って帰れるように。とにかく全力で仕事をこなし、現れる大なり小なりの見下したような人種差別、慣れない文化の違い、過密なスケジュール、知らない土地で出かけることもままならない、そんなものを五人で耐えて来た。だけど、成果が表れ、本当に名が知られるくらいになった頃には、この地に良さもあることを受け入れられた。
しかし、始まりは、地方周りをしていた時だ。
安ホテルの窓から見えた特に大きくもない黒い瓦屋根を、相部屋だったメンバーが指さして、言った。
寺じゃないですか。
線香か何かの煙が境内から立ち昇っているのを見て答えた。
俺より背が低く、メンバーの中でも童顔な人間が「コンビニに行くついでにみんなで覗いてみようか」と柄にもなく冒険心を出した。
初めて入った日本の寺は、古くて、何もなかった。
境内の中央に置かれた灰の入った大きな甕のような容器から、人もいないのに長い線香が何本か燃えて煙が出ていた。
夏の終わりに曇り空の下で、自分達は何をやっているのだろうと悲しくもなった。
煙を浴びながら、疲れた顔で甕を覗き込んで、こんな外国の地方都市で。
だけど全員で出て来たからか、心強さもあって、しばし眺めていた。
「結構同じなんだな」
一番白い肌の兄は度胸があるのか早く馴染んで、一人でも日本で出かけたりするようになっていた。彼につられて、若い自分達はうろうろと境内を徘徊した。
「チャンミン、この漢字読める?」
英語圏出身の兄が聞いてきた。一番長く伸ばした髪と一緒で柔らかい人当たりの良さがあった。
「一文字一文字は読めるけど、日本語で何て言うのか分からないです」
境内の立て札に日本語で恐らく寺の成り立ちのようなものが書いてあった。
そうしていると併設の建物から出て来た僧侶に声をかけられた。
顔を合わせて戸惑っていると、直ぐに外国人と分かったのか易しい言葉で立て札の説明をしてくれたが、俺が半分理解できたくらいで、あとのメンバーは殆ど分からなかっただろう。
五人中、三人は宗教の違いもあるから更に分かり辛かったと思う。
「で、あの漢字は何だったの?」
先ほどの兄に尋ねられ、「四苦八苦だって」と答えた。
しかし、メンバーの中で仏教徒とは言っても、はっきり言って信仰に厚いわけではないし、どうでも良かった。こちらのものは大分違いもある。
だが、僧侶が優しかったからか、予想外にどういう意味だったか兄たちが聞いて来て、分かる範囲で口早に説明をした。そろそろ戻らなければマネージャーが心配する。
「死ぬことが苦しいのはみんな一緒だな。国に違いもないね」
白い肌をした一番年上の度胸のある兄が、蝉の声に紛れて呟くと、何となく全員が黙ったのち、「何で黙んの?」と誰彼ともなく言って笑い合った。
Tシャツに汗もかき出して、せっかく買った飲み物もなくなってしまった。
煙をつけるとそこが良くなると教えて貰った通りに、最後に香炉を囲んで「これ同じだよね」と言いながら線香の煙を浴びた。
その時、なぜそんなことを言い出したのか分からないが、一番年上の兄が覗き込んで言った。
「もし、この灰が全部死ぬ苦しみだったら、誰か一人が飲み込んじゃえば終わるよね」
飲めねーよと英語圏出身の兄が笑い、だよね、と言い出した本人も声を出して笑う中、五人の間では自分と同じ色の黒い、身長もあまり変わらないリーダーが「メンバーの分なら俺は飲むよ」と笑いながらも言った。
「流石」と言われている姿を、自分はあまり笑うことが出来ず見ていた。飲むと言った本人もへらへらと笑っていた。
そんなこと出来るわけないが、もし起これば、彼は、その言葉の深刻さを理解せずに言ったと、初めてそこで自覚するだろう。が、確かに受け入れるだろうと。無駄な仕事だが、消化できるだけの責任感の強さは、本当に流石リーダーと思える人物を、横に長い自分の唇の端を上げるのもやめて、崩れた線香に舞い上がった灰から遠ざけるように、「早く行きましょう」とその身体を押した。
誰かの口から出た作り事など気にすることでもないのに、俺含め他人のそんな苦しみを一人が引き受ける必要など本当に無いから、無意味なオカルトからリーダーを離そうと無意識にしていた。
彼に向けて、ひらひらと舞い上がっていた灰は確かに粉々に散ったかもしれない。俺がそれを吸い込んだかもしれない。
そんなものが関係あるのか、誰の苦しみなのかは分からないが、あの日に、一つ目の死を見た。
眠った記憶もないのに、何が起きたのか思い出せなかった。でも、自分の頭で想像できないほどの「この国」と、「死」を経験したと言う感覚だけは残っている。
ベッドで見たが、寝ていたのではない。
ただ、苦しみを味わっている。ひりひりとした喉の渇きと、こめかみの違和感。
死以外の苦しみはなかった。だから、変な白昼夢を、俺は夜中に見ただけだと。
二か月後。
二つ目。
「あちらへは行かぬがよいぞ」
浄闇ではなかったのは、もう終焉に近いのか、外に出れば闇に混じり斬られかねない恐怖に息を潜めていた町人が、ざわめき出したように灯りが見えた。
自分に、目だけ上げて見た男も血まみれの頭から脳が出ているのが分かった。
だが、こちらを良く見て「なんじゃ。長州か」と砂利道に転がった刀に赤い手を伸ばした。
握る前に絶命した。
このまま戻れば傷一つ付かず済むだろうが、それはならない。
自分は同志達に向けられた援軍だった。
浅葱色の羽織の男をもう一度目にする前に、走り出した。
同志達は、討ち取られずとも、捕縛されれば同じだ。
三条大橋の方から声が上がっている。あそこまで行けば逃げのびられるかもしれない。
しかし、宿に残る面々はそうは行かないだろう。
ここ最近は静かな夜の町屋に、異様な喧騒がしている。
土埃を上げ、店のすぐ外で斬り合いが見えたが、あれは助からないと踏んだ。
二階の障子が落ちて、赤い水溜りに染まっている。二階の行燈の火が動き回る空気で揺れているのが見える。
一人しか送られなかったと言うことは、自分はここでおしまいかもしれないと思いながら、中に入った。
刃を合わせる音がそこかしこに響いて、鼓膜をつんざいた。
血で滑る床板を土足で踏み、抜刀で前にいた浅葱色の背中を斜めに斬った。割れ目から背骨を覗かせて膝から崩れる。
頭にあるのは一つだった。
幼馴染でもある同志がいるはずなのだ。自分よりは低いがここにいたら目立つ身長が見当たらない。
年は上なのに童顔で小心者なのだ。
濡れた刀身を振って見渡す。幼い頃は同じ布団で寝たこともある。斬り合っている中にどうしてもいない。逃げたか、と思いながらつまづいた。
童顔が床に落ちていた。
「ごめん」
正面の声に顔を上げる前に、赤く色づいた切っ先が自分の腹をさばくのが見えた。
黒い漆染めの木綿の間から、どろりと中が落ちていく。
返すその切っ先が、素早く動くと、足元の幼馴染と目を合わせていた。
昼間だった。
大量の汗を流しながら、楽屋にいた。寝ていない一瞬の間に、俺は見たのだ。
動悸がして、自分が何を見たのか記憶を呼び起こそうとしても、そこには死を見たとしかなかった。
メンバーが心配する中、床に座り込んで良く大きいと言われる目を見開いて、視界を確認した。
「大丈夫か。チャンミン」
俺の周りを腰を屈めながら、兄たちが覗き込んでいる。
苦しくて仕方がなかった。なぜ生きているか分からなくなるほど苦しかった。何も覚えてもいないのに、涙が出るほど。
これは前と一緒だ。
俺は確信していた。
あと二回ある。
一年後、上の兄二人以外には敬語がなくなっていた。ようやくこの国でも自分達が売れ出した頃だった。
三つ目。
自動車をベリエにしたと、友人がそれで日本橋から目的地まで乗せてくれた。
「君はアメリカを愛していたと思っていたよ」
「誰が」
立て襟シャツのポケットからシガレットケースを取り出して、一本に火をつけるのを横目に見てから振り返った。
「あの屋根はやわそうだね」
「いいや、そうでもない」
折り畳まれた車の屋根から、正面に向き直る。残暑のある日に、日差し避けにあれを拡げてはと提案しようとしたが、風は涼しいことに気づいた。
長い髪に白いリボンをつけ、日傘を差した袴姿の女が通り過ぎる。立ち止まって自分達を見送っていた。慣れたことで、友人は見もしない。
「差別主義の国だ」
伸びた黒髪を風になびかせながら、美味そうに咥えていた煙草を口から外し、吐き捨てるように言った。ここ最近新聞の話題はすっかりアメリカ合衆国に代わった。
「艦隊を粉砕した君の親父様は、ロシアを悪く仰るだろう」
ドア枠に肱をついて、赤煉瓦の東京駅に白い鳩が一羽飛んだのをぼんやり見て、視線を友人に向ける。
「シナもね」
悪賢そうに唇の端を上げて自分を一瞥した。鼻で笑い返して、また景色を拝んだ。この時自分は、袴から出した手で頬杖をつきながら、確かにもう一人が、「東京駅が変わらないな」と感想を抱いていたのを分かっていた。
「浅草で寄席でも見るのか」
「母の好きなくず餅がある」
他の人間ならからかって可笑しくないのが、友人は微笑がとれたのが分かる。こういうところが付き合いの長さなのだと思う。
「君にも買ってあげるよ」
流れる煉瓦造りの街並みに呟き、笑みを浮かべると、「俺の分も母上にあげてくれ」と、含み笑いの返事をされ、しだれ柳の緑が濃くなっている間をフランス製の新車で軽快に飛ばされた。
凌雲閣が入道雲の下に現れた。
浅草のバベルの塔を正面に眺めて、予言者のように「こんなものが今に溢れるだろう」と言う友人の呟きを聞いた。
「待っているから、うなぎでも食べて戻ろう」
その前に停めて貰い、新しい煙草を咥えながら提案されて、奢るよと答えて自分は通りを歩き出した。
目当ての店は、不忍池の方へ少し歩くとある。八角形の赤煉瓦の塔を背後にし、西洋風の建物の間を汗を拭きながら、五分ほど進んだ時だった。
袴の中で膝が地面から突き上がった。
押し上げられたようだったが、地が割れたと思った。
ごうんと、どこかで大きな岩でも落ちた音がして、最初の衝撃でよろけた身体を絶えず突き上げられ、立っていられずアスファルト舗装の道にへたり込む。舌をかみそうな振動は左右になり、思わず自分は振り向いた。その方には進行の早い結核で伏せっている母のいる自宅と、この国最大の塔が、十二階の上から順に壊れ、一番下に待つ薄い緑の外国車めがけて外壁を落とした様があった。
彼の名前をうわ言のように呟いて、とにかく立ち上がると、すぐ横に煉瓦が落ちた。それから、不忍池の方へ頭をかばいながら駆けだした自分を覆うように崩壊していく街並みを見た。
次に、助けてとあちこちから上がる声で目蓋を開けたが、暗闇だった。目をやられたのか、瓦礫に埋もれているからかは分からなかった。焦げ臭い匂いがする。はあ、はあと呼吸をしてみるが胸が上手く上がらない。火が来たら終わりだと思い、気付いた。どうやら自分が無事なのは頭だけだ。
他は感覚もない。
深夜に奇声を上げた。
相部屋の人間が起き出す前に、風呂場に駆け込み、脱衣所で座り込んだ。
はっきりと起きていて、携帯電話をベッドで触っていた最中に、まだ照明も消えていない位に。
三つ目が起きたと、苦痛だけが胸に拡がっている。現実に戻っているのに、逃げ出したく、その場でのたうち回った。記憶がないのに涙が溢れた。
どこか病んでいるだけかもしれない。でも精神が可笑しいと思えない。
死を見ていると、回数だけで残っても、それは忘れてしまう実体験と同じだ。繰り返された苦痛もいつしか忘れ、日常に馴染んでいるのだ。
だけど、なぜこんな目に合わなければならないのか、さっぱり分からない。自分が引き受けたのなら、他の四人はその苦しみからだけは解放されるのか。本当に彼らの死なのか。何もかも分からず途方もなくなる。
「チャンミンか?どした」
閉まったドアの向こうから、リーダーの声がした。だが、胸の痛みに上体を起こすことも出来なかった。起きていたかと舌打ちし、声を絞り出した。
「何でもないです。すぐに寝ます」
そう、おやすみ。と足音が離れて行くと、またもがいた。
四回。
もし、あんな他愛もない発想が原因なら、あと一回で終わる。一回は耐えよう。でもまだ続くなら、病院でも行くかもしれない。もしくは信仰心でも厚くしてやると、そう観念し、俺は苦しみさえも忘れて行った。
そして、兄達だけを頼りに、名を上げるだけ、稼ぐだけの辛い日常をやり過ごした。彼らと過ごす日常で解消できていた。
しかし、折角この国でも有名になったのが、意味が無いほど、今までの努力も意味が無いほど、ずっと目を瞑っていた問題が、兄達数人の中で形を変え出した。関係性が変わって行った。
その頃。
四つ目。
静まり返った中で蝉の声を聞いていると、車内をぐるりと一列で囲んだ座席で、隣の男が呟いた。
「人間と思ってないんじゃろうなあ」
瞳だけを動かして見ると、やけに色が白く綺麗な顔立ちをしていた。
「キリストがそう教えとるんじゃろうか」
上着の無い軽装だったが、傷痍軍人らしく、首から包帯を腕にかけ、腕自体も別の包帯で覆っていた。自分に話しかけているのか判断つかず返事はしないでいたが、時々痛みで顰めていた顔をこちらへ向け、視線をつま先から頭まで上げられた。役所勤めでまだ赤紙が来ていないと口にすべきか迷ったが、頭にも巻かれているのを見て、様子を見た。
しかし、その痛みを自分に愚痴っているようだった。
「まあ、わしらもそう思っとるけえ、あいこか」と言って小さな口で笑いかけてきたから、誰もこちらを見ず、通夜のように黙っている中、愛想笑いを返そうとして、目を拡げた。視界の端で、向かいに座る俯いたもんぺ姿の老婆の後ろに映った光景を、顔を向け凝視した。
一部天井が丸いドームになった、立派な造りの建物が後ろに遠ざかっていく。
屋根が朝日で輝く産業奨励館の、ぼろぼろに朽ちたあの建造物を見たと、もう一人の自分が顔を出していた。年月日を計算し、呼吸が早くなった。
この国についての悲劇は必要はないと思い、仕事で仕方なく詰め込んだ知識と学校教育だけしかない。
が、少なくともこの場所で起こる惨状を、もう一人の自分は、知っている。あれは八月ではないか。
浅い息を繰り返して、隣の男を見た。きょとんとした顔で「降りそびれたんか」と言ってきた。
「軍人さんはどこ行くんです?」
「福山じゃけえ。駅行く」
「自分もです。自分も福山で働いとるんです」
目的地が一緒だったことで、行きずりの他人だが、年も近そうなこの軍人も自分もひとまずは大丈夫かもしれないと少し安心はした、けれど、とにかくここから離れたくて、体が震えた。鳩の群れを横切り、路面電車と並ぶようにバスは走り、あと四駅だと思った時に隣が腰を上げた。
「駅はまだですよ」
ほぼ反射的に口に出した。
「あそこの病院で包帯代えて行くんよ」
包帯のない手で外を指差しながら、切れ長の大きな目を細めて不思議そうに笑われたが、
「病院なら福山で行けばええでしょう。電車の時間がおそうになりますよ」
と、返した。
「歩くのしんどいけえ。お前、母ちゃんみたいなこと言うのう」
あははと車内に彼の笑い声が響いた。
だが自分が睨むように見ていたからか、笑うのをやめて、
「大丈夫じゃ。わしも母ちゃんに、はよう顔見せたいから、さっさと済ませる」
駅で会うじゃろう、そう言って彼は降りてしまった。
病院の石段でにこやかに手を振る姿に、呆然と手を振り返しながら、大丈夫だと言い聞かせた。今日は早朝に警報が一度出た。B29の編隊は青空で何もせず引き返したではないか。
駅に着き、外に出ると蝉の声が狂ったみたいに大きくなり、近頃一層酷くなった配給不足のせいで眩暈がした。山陽線の時刻表をもう一度確認してから、電車が来る前に、弁当に持って来た芋を食ってしまおうかと迷ったが、肩にかけた鞄から水筒だけを取り出した。白い綿シャツは汗でもうぐっしょり濡れている。時刻までまだ大分ある。改札前の待合室で入口近くに腰を掛け、水筒に口を付けた。喉が大分乾いていたが、残りは車内で飲もうと蓋を閉めて、何気なく背後の窓を見た。
まばらに座っていた人達が真っ白になるような光が巨大に膨らんで、窓硝子を粉々にして入って来た。
そう思ったら、全身が何かに叩きつけられ、地面にこすりつけられた。動きが止まったのは、改札の階段にぶつかったからだと気づくまで、放心していた。骨が砕けたろうと思ったが、片腕以外は動かすことが出来た。けれど体中折れていたし、視界が真っ暗になったり、見えたりするから、目蓋を左右交互に開閉してみると、右が動かないことが分かった。目の前のコンクリートに自分のものだと分かる顔の形が赤くついている。何とか起き上がって体を眺めると、こすりつけられたからか腕も血だらけで皮が剥がれている。
外に飛び出たことは分かっていたが、顔を上げると、待合室はなかった。
それどころか瓦礫の向こうにも何もない。めらめら燃える炎も見えたが、見にくかった。陽炎が揺れ、空まで登る火が200メートルほど先に拡がっていて、それと一緒になってしまっている。眩しい夕焼けみたいな中で瓦礫だけがあった。落ちて来る灰と共に、火の海から、ゆっくりと人間の形をしたものがいくつか出て来るのが見えて、自分はそちらに向かって行った。平らになった待合室の下から唸る声が聞こえたが、今は歩くのが精一杯だった。しかし、中から多分抜け出した人間がうずくまっていて、声をかけようとした。が、それもやめた。全身赤く、男か女か分からずに、硝子の破片を右側にびっしりつけている。首にも刺さった硝子のせいで、大量の血を地面に落としていたが、その血は既に止まっていた。
大通りに出ると、上半身裸で、うちら非戦闘員じゃけえ、もうやめて下さいとぶつぶつ言いながら、髪もすっかり焼け焦げた女性が道の真ん中に座り込んでいて、すぐ喋らなくなった。
熱いようと通り過ぎる瓦礫の中で聞こえたが、不思議と自分は熱さを感じなかった。
真っ黒な、殆ど炭みたいな人間が何人もすれ違い、目の前で倒れたりもした。焼けただれて、ずるずるになった人間や、頭皮がめくれて頭蓋骨が見えているのもいて、火の海に近づくにつれて、動いている人間が少なくなった。
しかし、腕と腹部の切り傷だけで、服もまだ着ている老人を見つけて、声をかけた。
「あのう。産業奨励館の近くの病院に軍人さんはおりませんでしたか?」
自分がそう言うと、白い灰だらけの老人は憐れな目をした。
「向こうはもう建物も焼け落ちてしまっとる。あんなん人間なんか残らんわ。見に来たけど近づけんかったよ。はようあんたも逃げんさい」
「そうですか」
答えて黙ると、老人は、「ほら。手を引いて上げるけえ」と腕を掴んでこちらを見てきた。その憐れな目が、自分に向けられているのは分かっていた。
大分酷いことになっているのだろう。
「いえ、大丈夫ですから。行って下さい」
火は目前に迫っているが、もうどうせ動けない。
役目を果たして、歩かなくて良くなったことに安堵はしたが、酷く、悲しかった。
死を見なくなった。
四つ目を終えた後、三人の兄がメンバーから消え、グループ活動は停止した。
停止した間、韓国で単独の仕事をしていたが、事務所に残った自分とリーダーの二人だけで、グループを復活させることになった。
そして、二人だけになって長い今は、複雑だった心境も落ち着いている。ただ騒動の最中にも、怒りややるせなさを覚えながらも、いなくなった兄達の元気な姿を見ると、どこか安心する自分がいた。
四つ目に見た死も、辛かった日々のように過去になり、俺はやはりその苦しみを忘れた。
次が来れば、病院に行こうと発狂しかけたが、まだ病院には行っていない。死を見ていないからでなく、諦めたのだ。
あれが何か解決しないまま、始まった。
チャンミン。
名前を呼び、男の俺の唇をはいずり回っている男の唇。
自分と同じくらい色の黒く、背も高い男がしてくるキスに、俺は違和感なく返している。
五つ目だ。
もしかしたら、あの時、自分の分が入っていたのではないだろうか。
これは、忘れることが出来ない。記憶から逃げることが出来ない、社会的な死だった。
二人きりで耐えた辛い日々から始まった関係に、俺はまだ途方もなく苦しめられている。
唇は、俺をはいずり回り、首筋や、その下に移動したりもする。
終われば、何だったのか分かるかもしれない。だけど、まだ五つ目は終わってくれなかった。
しかし、その端に泡をつけ興奮しているのを見ると、やっと俺は、夢を見ていると思うのだ。








『死の夢』おわり

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