「夜光虫2」ユノ×チャンミン
声を出す間もなく、俺より先に反応した隣が、手を伸ばして従った。
「ありがと、高野」
言いながら、「いえ」と答えた彼も見ず、正面の直方体から離れて、窓際の水道に向かう。洗った手が、部屋の大半を占める大きなテーブルの上に雑然と置かれたタオルで拭かれた。
反射神経が鈍くなっている自分が発した「すいません」と言う呟きと同時に、長い指にまとわりついた布が同じ位置に投げられる。
見たことのない実験器具を後ろにして、手をついてその背後の台にもたれかかる。
「で?」
酸素注入のそれと、全く違う、二つの音域の違う音。この空間にはそれしかない。
顎を少し上げて、無感情な目で怠慢に見くだされる。
夜間になって薄暗い室内でも直方体の中の照明がその顔を照らしている。色温度の高い光線に関わらず、その顔に当たると摂氏より低く見えた。
なにか恐ろしい夢のようだった。
「明後日からの白石島に彼も参加するんですよ」
「二年で?」
その返事に言葉をつまらせた眼鏡の彼の心境と同様に、自分も今一度目の前の人間を見直した。
「来年からここに来ることは決定みたいで、もう研究内容も決まってるんだよね?」
少し間があいた後、気を取り直すように言われて、急に自分に向けられた二組の目に、視線を彷徨わせる。「はい」と、一言を出して、前を向くと、表情のない顔が自分を見ていた。
心拍数が上昇していく。
見つめる先の口が、開いた。
「生体発光、その目的の構想」
ゆっくりと出された、その一切感情の籠らない声を聞いて、俺はやはりと小さく嘆息した。
誰かから聞いたわけではない、この人は自分が二歳下だと、元から知っている。
自分の書いた論文の題名を、その口から聞くとは思わずに、俺は顔が熱くなるのを感じた。
肩を揉むように、首に長い指が充てられて、
「ノクチルカにするとはな」
と、面倒くさげにその冷たい目をそらされながら、誰に言うでもない、独り言のように呟かれて鼻で笑われた。
それから、「じゃあ……」と、怠慢に首を左右に動かしてから、この先にもきっと俺を今みたく、小気味に挑発することが予測できる物言いで始められる。
「原生動物が意志を持ったことになる」
その通りに、口の端に笑みを浮かべて、はっきりと俺に向けられた言葉で、自分がこの人に何かしたのだろうか、と思わされた。
唾を飲み込んで、なぜか震えそうになった声をなだめるように、声を出す。
「……意志と言うより、それが進化だと思うので」
「生物の進化は適応だろ?シム・チャンミン」
瞬時に返された口調から、これは元の性質によって、逆らうことは出来ない常識を盾に相手に白旗を降らせるのが好きなわけではない、と再確認した。
これは明らかに俺だからだ。
その含み笑いは、微々すぎて見落としそうなぐらい度合の低い面白さを感じている。
俺の呼び名が、決定づけている。小馬鹿にしたい何かを自分に見出している。
そんなものに、自分は初対面で勝てる神経を持ち合わせていない。
でも、それは察知されたように助け舟が出された。
「あの……とりあえず、そういうことで。他の人間には月曜の学会終わりの打ち上げで伝えてあります。残るは先輩だけだったので」
「そう」
口の端を上げたまま、三人の思惑を全て理解したように、自分から目が背かれた。
「先輩は……参加なんですよね?」
「まあ、殆ど俺が使うものだし。拒否したいけど」
そう言って腕を組んで、先程と同様に顎を少し上げて呟く。何となく体温がそこにはあって、俺の緊張は解けた。
「じゃあ、行こうか、シム君」
「あ、はい」
踵を返す前に、もう一度俺は彼の顔を伺い見た。
でも、もう彼の目は、こちらには向けられなかった。
続く