「そういうこともある 7」ユノ×チャンミン
~Yside~
「129ページの二行目ですね。ここ誤植ですよ。分かりますか?」
電話の向こうで工場長が渋い返事をした。
表情は俺だってきっと変わらない。
今日は泊まりになるな。とお互い思ったからだ。
これだけページ数があるんだから、やるかもな、と思っていたけれど、まさか今日とは。
「行くんですか?」
隣から声をかけられて振り向く。
少し狼狽えた俺がいる。
「ああ、うん。お前は担当のやれよ」
「僕も今から孔徳ですよ?」
その大きくて、純粋な目が少し照れたように伏せた。
赤くなった頬を見る。
「あ……じゃあ、一緒に出ようか」
「はい」
可愛い笑顔が今日は俺に小さな棘のようにささった。
エレベーターに乗り込む。
「泊まりですか?」
「ああ、きっと」
顔を上げて階が下りて行くたびに減っていく、電光数字を眺めた。
「あの、またメッセージ送ります」
言われてそっちを見る。
仕事中で、怒られるかもと視線を泳がせている。
別にこんな場所でそんなことで怒らないのに。
可愛いな、とふと笑った。
土曜日見る映画についてだった。
「クライアントはどう?」
「あ、順調です」
「そう」
初めて一人で任された案件をこいつは一生懸命やっている。
結構大きな案件だ。
電車の路線図だった。
けれど、あそこは毎年受注される取引先でうちのやり方には慣れているし、大きな案件だけれど難しくはない。
若手社員の通過儀礼のようなものだ。
「じゃあ、頑張って下さい」
「おー、そっちもな」
「はい」
改札に入って違うホームに向かう足を止めた。
「あのさー」
俺の言葉に振り向く。
「恐竜のにしない?」
人通りが多くて、少し大きい声で放った俺の言葉に、その顔中が嬉しそうに綻んでいく。
学生服のようなスーツ姿で微笑む、それを見ると切なくなって、次の言葉が出ずに眺めた。
あとで痛い目見るのはお前だぞ、ともう一人の自分の声が聞こえる。
「でも、また携帯で」
そう言って俺は片手を上げて、その顔から逃げるようにホームに向かった。
何も始まってないのだから、勝手に始めるのはやめろと、言い聞かせる。
この前の日曜日に俺達はプライベートで会った。
その時に感じた淡い期待や、感慨を、俺はまだ引きずっている。でも俺だけじゃなくて、自分達は確実に少し精神的な距離が縮まった。
調度良く来た電車に乗り込んだ。
けれど、そんな甘い胸の締め付けよりも、「携帯」と言う自分の台詞で思い出して逃げたくなったのかもしれない。
始まらないのだから、そんな必要はないのに。
今日は約束があった。
席に座りながら、携帯電話を操作する。
向こうからの提案だったけれど、この前の代替案だった。
食事の予定だったけれど、今日もキャンセルだ。
思わずため息が出る。
会って、別れを切り出すかどうかは正直まだ分からなかった。
こういう関係にそれが必要かと言えば、付き合いによるだろうけれど、自分達は会う回数は少ないものの期間は長い。
その時には一言言うべきだと俺の念頭にはある。
でも本当に別れ自体必要なのかも良く分からない。今している俺の恋は前途が開かれないし、身体だけの相手だって都合よく他に見つかるとは限らない。
取りあえず、だから、食事にした。
顔を上げると、車内広告が目に入る。
ああ。地下に入る前に送らないと。
残業で無理になった、と一言打った。
すぐに「了解」と来た。
背もたれに背をつけてまた広告を見つめる。
一気に疲労感を覚えながら、自分の将来を思い描いた。
けれどトンネルに入って蛍光灯に照らされた、
恐竜映画のポスターは、何の答えも俺には出さない。
つづく