「夜光虫1」ユノ×チャンミン
「死んでいる人間を見たことはあるか?」
その黒い瞳の中には虫がいた。生命が明滅を繰り返している。
もう誰もいない。深くあいた慟哭は海のように拡がっている。波打ち際で、向こう側に来いと呼んでいる。そこで見えた光を、俺はその虫に応えている。
ーーねえ、本当は、
ーーあなただって、
ーーいきたくないんでしょう?
「偶然だね」
と、少し面白そうに言われた後に、でも複雑に目元が歪んだ。
俺はそれを見ながら、まだそんな類の表情を読む気持ちの余裕もないことに、封筒を持つ自分の手が造作もない紙に穴を開けそうなほど湿っていることで気づいている。
太陽の光は翳って、もう網膜に反射してくる光線の色は変わっている。
その原因がこの封筒の中にあった。
もっと早くに済ませられると思っていた。ここは日本だったから。でも俺の予想に反して、その手続きは、正確すぎたのかもしれないと思う。けれどやはり理由は分からなかった。
今日中に、顔を出せただけでも良かったのかもしれない。
自分は今、研究室に向かう廊下を歩いている。
「君と同じ国から来てる人がいるよ」
と言って、彼は前を向いた。日本人らしい黒縁の眼鏡の奥から、思考を読み取れないようにそうした様な気はした。でもそれが確信できるほどの、心の余裕も、体力も残っていなかった。
気候もあった。
昨日初めてこの地に踏み出したとき、口の中に潜り込んでくるような重さを持った空気に、吐き気を覚えた。息も出来ないような湿度が、外に出るだけで自分の体力を奪っていく。
「そうなんですか?」
と、自分が言うと、「うん」と返事がされて、間が空いた。
夏季休暇の今、外から聞こえてくる音は蝉の声だけだった。その声も日没と一緒に消え始めている。
不自然に空いた間に、先ほどから覚えている違和感は、自分の気のせいではないことを確信し始めている。でもそれを追求するほど、自分は初対面の人間とたやすく会話のできる性格ではなかった。
「今研究室にいるのはその先輩だけだね。人が来ない時の方が良いらしい」
少しずつ、俺に教えてくれるのは、恐らく口の軽さというよりもその必要性を感じているような言い方だった。全く笑みのない口元から、緊張しているのも分かる。日本に来て二日目で自国の言葉を聞くことになるのか、と漠然と思った。
「君の論文読んだよ」
いきなり、話の内容を変えられて、戸惑いと気恥ずかしさで、自分の頬が赤らんだのが分かった。
そうですか、としか答えることが出来なかった。初めて書いた自分の論文の内容が頭を駆け巡った。
その徒労も、思い出される。
「有名だしね」
僕は好きだな、と言って初めて俺の方を向いて見せてくれたまともな笑みに、自分の緊張もそれで少し解れる。
ありがとうございます、と簡単に礼を言う頃には、とうとう外は漆黒の闇になった。
新月の今日、上からの蛍光灯の明かりだけが自分達の視界を浮き上がらせる全てだ。
「ソウルは都会らしいね。東京みたいな感じなんでしょう?」
「あんなに大きくはないです。それに俺の実家はもっと田舎で」
「そうなんだ?ここも田舎だよ」
と言って、彼が歯を見せた。
その瞬間、
ちちっと音を立てて自分達に暗闇が訪れた。でもすぐにまた視界は戻る。
立ち止まって、上を向いた。
ここの蛍光灯が切れかかっているみたいだ。
「うちの学校は変わっててね。夏休みの前に文化祭をするんだけど、酔っ払ったどうしようもないのが、スパークリングワインの栓をぶつけたんだ。
うちのは全部LEDなんだけど、どこか接触がおかしくなったらしい」
俺が正面を向くと、目の前の彼も上を見ていたみたいで、俺に向き直った。
「直さないんですか?」
「今、日本は『お盆』っていう特殊な期間で、学校が使う業者が休みなんだよ。それに夜まで使われる研究室なんてあんまりないんだ」
と、言って俺達の目の前のドアを見た。廊下はここで終わっている。
目的の研究室に着いたようだった。
「先輩は色んな噂があるけど悪い人じゃない、と僕は思ってる」
と声が極力まで落とされて言われた。
でも、と続けられた会話にまた『ちちっ』と上から音がする。
―――君は気を付けたほうがいい。
そう、薄闇の中でささやかれた言葉が鼓膜にとどまる。
俺は何も答えられないまま、視界はまた元に戻った。
じゃあ、と俺に目配せをされたあと、引き戸が開かれる。
水音が聞こえる。
自分の研究室なんだとすぐに分かる。
まず匂い。
これは潮の匂いだ。
室内で嗅ぐことのない海の匂い。
そして、部屋の真ん中に置かれた、透明な箱。
酸素を注入されている水音。
その水が入った大きな水槽をこちら側に向いて覗き込んでいる人間がいる。
水には赤色の靄が溶けている。
まるでこの人間が吐き出した血のようだ。
そうみえても仕方がない。だってこの人は、入ってきた俺達に俯き加減な顔を上げることもなく、目だけゆっくり上げて俺達を見た、上目遣いで見るその冷たさ。まるで生気がないみたいな静けさ。
狂いがない鼻筋、質感のある唇が上手くおさまった口元、そしてまるで、俺達をそこにいないかのごとく冷ややかに見ている奥二重の眼差し。その中で作り物のような黒い瞳が俺を見ている。
怖さの覚える整った顔立ちだった。
この人のせいによる異様な光景に息を止めた。
俺の隣の彼が瞬時に緊張したのが分かった。俺もそうだったから。
隣の彼が俺に向いた。
「君の先輩の、チョン・ユノさん。それでユノさん、この人」
「ドア」
彼の言葉を遮って、目の前の異様な人物が言葉を発する。
俺はその発した声の主を見つめる。
「閉めてほしいんだけど、シム・チャンミン君」
苛立ちを感じさせながら、その言い方は恐ろしく落ち着いていて、
そして、自分と同じ国から来たとは思えないほどの、
日本語だった。
続く