「密葬」ユノ×チャンミンの短編
テレビをつけた。
年代物のテレビは、灰色の画面の中心に弾ける様な音と共に丸く白い円を浮かび上がらせたあと、像を映し出した。
どこかの市議会選で起きた不正をニュースが報じている。
見出しは簡素で、ただ、読み上げる声には一定の技量があった。その技量には、見ている人間は少ないと言う諦念まで含まれてはいるけれど、その正面に胡座をかいている男は、それに漠然と目を向けてはいるが、見てはいないし、聞いてもいない。
明るさはそこから漏れ出る青白い光のみだった。
男の指に入り込んだプルトップは上げられたまま、ビールは口をつけられず、水滴だけを、まだ体温より低いくらい、冷えていると言うのは憚られる温度の表面から、零していた。
画面に、砂嵐が入り込んだ。
思い出したように、手元のそれに口をつける。けれど男は、味わってもいなかった。
砂嵐が入り込むのは、暴風雨の多いこの地域には日常茶飯事で、比較的天候は安定している今もどこかで可笑しくなったアンテナは直されていない。
「今年の縄は若手がいるから楽だよ」
地元の住人が縄を編んで、海に投げる祭りは夏の風物詩だった。今朝来た町長がようやく会うことが出来た、と安堵した顔で持ちだした話題だ。
男の喉にはアルコールと言う刺激も炭酸と言う刺激も、記憶に跡形も残さず胃に落とされて入っている。缶から落ちた水滴が、伸びきった髭を伝って、畳を濡らしたが、それも、むず痒さを覚えているはずの濡れた髭とその下の皮膚も、拭われないままだった。
画面はいつの間にか砂嵐のまま変わらなくなった。
そうなってようやく男はそれを見出した。それから、飲んでいる缶が空になっているのも気づいた。台所に目をやる。
多種多様な酒の空き容器が転がる畳の向こう、すり硝子の引き戸の奥にぼやけて見える冷蔵庫を一瞥したあと、自分の持つ缶を膝元に置いた。
立ち上がった男はその引き戸の手前で腰を下ろした。男によって部屋に漂う香りと煙がかきまわされる。その元凶の前に座った。
男はぼんやりと眺める。足元の小さな台の上に置かれた砂壺には大量の線香が刺してあった。全てにまだ火が灯っている。
仏壇に相応しくない、女の下着が写真の前に置かれていた。それを手に取った。
線香の火に気を付けながら顔をうずめる。でもそこに置かれているものだけではなかった。
部屋中の壁が女の衣類で飾られていたのだ。
あれから男は人と殆ど会っていない。今朝、町長を部屋に入れたのは、
今日が四十九日だったからだ。
それを過ぎると、この世からいなくなってしまうと言われたのを覚えていた。
だから、日頃仲良くしていた人間を家に入れれば、ここを……離れないだろうと思ったのだ。
暑さと湿気で湿った顔や首周りに、下着を撫でつけていく。儀式のように何度もそれを行った。浮かび上がる涙は零れはしない。
まだ死んでなどいない。大丈夫だ、大丈夫だ、と微笑んだ。
たんたん
男は動きを止めた。
たん……たん
自分の横を見た。すり硝子の向こう側、台所の先は玄関だ。
たん……たん……
ドアを、誰かが叩いている。
力がない、拳を突き出せず、平手で叩いているような音だ。背後では深夜に砂嵐となったテレビがまだざあざあと鳴っている。
「地域はどこらへんの設定なんですか?」
「島で。丁度去年行ったんですけど」
「ああ、あの!いいですね。これ、このまま載せられると思います」
「そうですか、良かったです」
「こちらこそ。純文の人にこんな仕事を」
「そんな。そういうのないですから」
「いやいや、シムさん、翻訳物も大分向こうで評判良いと伺ってますよ」
「全然売れてないですよ」
ちょっとだけ「そんなことありませんよ」、と言うのを期待したつもりだったけれど、「いやいや」と愛想笑いで済まされてしまった。それはそうだ。数字で叩き出されたものに嘘はつけない。でもそこは中身を褒めるのが、担当者だろ。と冷房で冷えきってしまった珈琲に口付ける。
「一週間後に、また」
まあ、味は良かったな。
流石交際費で何でも落とせる人間の通う店だ。冷めた苦さを思い出しながら、バスの窓から見える暮れた街並みを眺める。
あ、ビール買い忘れた。
一人のマンションの一室に帰って、玄関で思い出した。
2DKに俺の溜息が浸透する。肩を落としながら、むっと暑さのこもる部屋に入る。冷蔵庫に買って来たものをいれて、早々にクーラーをつけた。
今日は何もしないつもりだったけれど、これは何かが俺に仕事をしろと言ってるんだな。じゃあ、してやるよ。
汗のかいた体を洗って、部屋着に着替えてから、ビールに合いそうな唐揚げなどを、惜しみながら口に運んで、デスクの上でノートパソコンを立ち上げた。
数年前、小さな賞を受賞してからはこれ一本で食べて行けるようにはなったものの、ヒット作なんて出せない。それには様々な理由があったけれど、その多くは自分にその能力がないからだと、俺は自覚し始めている。
身の丈にあったもの、方向性、模索しながらも、日々食えているんだからいいだろう、そこに落ち着いた。会社員だった頃の自分に戻るのも悪くはないとも思っている。でもこれも三十前の身の丈にあった優柔不断だった。
それに会社員の頃に、一番自分が抱えていた問題事項のことを思うと、その優柔不断は現状維持に流れた。
たん……たん……
その動作には軽やかさがない。合間に、重く引きずる様な粘着質な音もついている。男は少し、息を潜めた。最初一度だけ、心臓が大きく脈打った。けれど、酔いが反射神経も感覚も凌駕している。しかし、それを凌駕する、悲壮と恋しさがあった。
下着を握ったまま、男は音のする方を見つめる。
たん……たん
たんたん
握った手に力がこもった。
その目の淵から、再びせり上がって来たのは、感動のそれだった。大きく一度息を吸い込んで、声に出した。
「さえ子か?」
薄暗い空間に、妻の名を呼んだ。
その時だった。
たんたんたんたんたんたんたんたんたん……
ピンポーン。
びくっと体を強張らせた。
タイミング悪いんだよ。はあっと息をつく。今何時だ?
壁掛けの時計を見ると、0時だった。誰だ、こんな夜中に。
データを保存した後、もうパソコンと電気スタンドしか置かれていないデスクをそのままにして、部屋を出る。玄関に電気をつけながら、ドアスコープを覗いた。
さっき縮みあがった心臓が今度は跳ね上がった。
目を疑う。
どういうことだ?
俺はこのドアの向こうにいる人間が信じられなくて、見つめ続ける。でも出ないと、その姿が消えていってしまいそうで慌ててドアを開けた。
「チャンミン」
俺に笑いかけた。
「ユノ……」
10年ぶりに会った親友だった。
つづく