「密葬 4」ユノ×チャンミンの短編
伸びて来た癖毛を無造作に掻き上げた。そんな錯覚を今更気にしてどうするんだ。
やっぱりユノを行かせるんじゃなかった。
こんな時間になっても来ない。いつまで噛みしめてるつもりなんだ。それとも仕事が遅いのか。
連絡先さえ言わずに出て行くなんて、確信犯に思えて来る。俺だって聞く暇がなかったほどの忙しなさだったんだから、それはないと思いたいけど。
開いたままのパソコン画面の前で頭を抱えて、大きく溜息を吐いた。
いつ来るかも分からないユノを待って今日一日、家から出られなかった。これはいつまで続く?
そもそもユノはどうやって、ここに来たんだ。俺の実家から住所を聞き出して、タクシーで来た?じゃあ住所は知ってるってことだよな。道に迷ったなんてことはないだろう。例え今日バスや電車で来て迷ったとしても、最後はタクシー使えば終わりだろ。
画面を一瞥して保存する。閉じた。
これで終わりなんてもう俺には考えられない。ユノなら、あんな言い方をして俺を放って出て行って、やっぱり来ないなんてことはないと、思いたい。
部屋から出て、廊下から玄関のドアを眺める。ドアの外にメモでも貼り付けて気分転換に買い物に出ようか。もし来た時のために酒でも用意しておきたいし。
ジーンズに履き替える前に、何気なくそのまま、俺は廊下を歩いて、ドアスコープを覗いた。それは何となくだった、悩んでいるユノの姿が、躊躇して動けない姿が、そこにあればいいと言う希望だった。でも俺は目を見開く。
次の瞬間にはドアを開いていた。
「ユノ」
ドアの向こうで、目を丸くしたユノが、感動も混ざったような微笑で俺に笑いかけた。
昨日と同じ服。出て行ったままの姿だった。いつからそこに立っていたんだろう。昨日帰らなかったなんてことはないよな。いや、分からない、俺は閉まった扉を見ただけで、外は確認していない。でもまさかそんなはずはない。だって今は深夜だ。
「いつから、いたんですか?」
彼の顔から微笑みが消える。切なげに見つめる目が昨日の姿を思い出させた。
「いえ、入って下さい」
何も考えさせたくない。来たからには離したくない。ユノは玄関に入った。でもそこで動かなくなった。靴も脱がず、立ち尽くしている。
先に入った俺が眉を潜めた。
「ユノ、入って」
「チャンミン」
小さな段差のある玄関で、上目遣いに伺うように見上げる。
黒い瞳を揺らして俺を見つめている。その脚は動くことを拒んでいる。
ここに来て、それはないだろう。
「ユノ……両想いなんですよ?」
信じられない顔をした俺に言われて、ユノが悲しそうに視線を落とす。
「とりあえず上がってよ」
心臓が鳴り始める。卒倒しそうだ。
ユノが黙ったまま、ゆっくり首を横に振った。
俺は唖然と目を開く。
「なんで?」
「チャンミン……ごめん」
はっと息を吐き出した。
「何で謝られるんですか?謝る理由は?」
顔を上げたユノの瞳が揺れて、段々と潤ってくる。
「理由、言って」
問い詰めている俺の方が泣きそうだ。ユノが俺を眺めて、口を開いた。
「好きだよ、チャンミン」
黒い瞳が濡れて、溢れた。
「好きだよ」
もう一度言われながら、止めどなく流れてくる涙を凝視して、俺は本当に混乱していた。
「でも付き合えない」
涙を拭わず、ユノが、言い放った。訳が分からず、息が止まる。さっきまで酷い速さで脈打っていた心臓まで止まった気がした。
「……なに?」
また原点に返って来る。俺の聞きたい理由がずれて、真相に迫れない。近づいているのは分かる。ユノをここまで頑なにさせる何かに、目を背けられないほどの何かに、怒りさえ湧いている。
「……理由は?」
呆然と聞いた。
ユノが顔を拭って、俺を見つめた。その顔は今まであんなに涙をこぼしたと分からないほどさめざめとしていた。青白くて、疲れているんだろう。やはりずっと家の前にいたんだろうか。昨日一晩眠れていない?恋しくて胸が張り裂けそうだ。
ユノは人形のような顔で、口に出した。
「ブザーが、押せなくなった」
一言言って、止めた。俺は、思考の為に静止した。ユノの言葉を反芻する。けれど分からない。黒い瞳が俺を見つめている。
「昨日は押せたのに、押せなくなった」
本当にユノは人形のようだった。そう言う風に表情無く繰り返した。言葉そのものの意味を理解していない者のようにも見えた。けれど、実際理解していないのは自分だと言うことは分かっている。ユノの台詞のどこにも手掛かりは見出せない。
「気付いた時、俺はバス停にいた。チャンミンが降りてくるところだった。ごめん、それから俺は尾けたんだ。悪いことしてると思ったけど、俺はすごく嬉しくて、楽しかった。夢かと思った。でもドアが閉じて、チャンミンは部屋の中にいなくなって、これが夢ならもう少し俺に構ってくれてもいいんじゃないかと思った。それから、ああ、そうじゃなくて、これが俺の、思い残しなんだと思った」
俺はユノのどこかうわ言みたいな口調で喋る顔を見つめて、眉を更に顰める。ユノはやっぱり言葉の使い方が変だ。その台詞だと、奇異な結論が頭をよぎった。だけどそれは間違っている。それはあり得ない。
「ブザーは押せないかと思った。でも押せた。チャンミンは俺と話せないんじゃないかと思った。けど話せた。しかもチャンミンも好きだったって聞いて、俺は馬鹿だったなあって。十年も悩んで、あと一年でも早く言ってれば、付き合えたのにって思った。でも最後にチャンミンと会えただけ、俺は幸せ者だ」
ユノはそう言って泣いた。
俺の予期した結論に、とても良く似てきた。
しかし、そんな非科学的なことはあり得ない。
「ユノ、何か病気があるんですか?」
ユノは首を振る。心底ほっとして良いところなのに、俺の胸は騒いだままだ。
もう一つ聞いた。
「何で、俺と話せないと思ったんですか?」
先走った誤解だけはしないでおきたかっただけの質問だった。でもなぜか脂汗が出た。どこか虚ろな目を見据えて、瞬きも出来なかった。
「俺、生きてる人間じゃない」
悲痛な顔だったけれど、ユノは微笑んでいた。こうなることを予想して、俺が絶望するのを分かっていて、それを救うような、その場を和らげようとする笑みだった。
俺はもっと分かりやすく笑った。何を言っているんだと思ったし。冗談にしようとしてしたけれど、上手くはいかなかった。だってそれはないと俺が予期したままのことだったから。口角も上がらないまま、俺が一度、吐きだした息の音だけ耳についた。
「そんなわけ、ないでしょ?」
でもユノは何も答えず切なげに見ている。
ブルーの長袖シャツは綺麗で、あんなに流した涙の跡はどこにもついていない。
「……ユノ、上がってよ。座って話そう」
自分を見ていた瞳が不安そうに揺れる。
「上がって」
そのシャツの腕に、伸ばした俺の手が空を掴んだ。
ただの握り拳になった俺の手がユノの腕にめりこんでいる。けれどめり込んでいる感触はどこにもなかった。
ユノが掴めなかった。
「チャンミン、ごめん」
ごめんと繰り返されて、
俺はユノよりも、蒼白している。
つづく