「密葬 5」ユノ×チャンミンの短編
そんなに自分達は悪いことをしただろうか。
非科学的なことは、全く信じていない。確かに心のどこかでそんな未知の領域を望んでいることはあったかもしれない。でも、こんなに最悪な体験は望んでいない。
俺は放心していた。これで想いが叶ったなんて言えるのか。
目に焼き付けるよう俺を見て、ユノが俯いて言った。
「行く」
意を決したみたいに勢いよく踵を返されて、正気に返った。
「ユノ」
ユノが振り返る。
「何言ってんの?」
黒い瞳が揺れる。
「どこ行くの?ユノ」
泣き止んでいた顔が、また泣きそうに歪んだ。
「……俺は、もう」
そうして小さな声で返される。
「俺はもうなに?成仏でもするの?」
ユノが不安な黒い瞳で見つめてくる。正気に返った俺は、むしろ狂いそうだった。狂うほど目の前の彼を、放せないと思った。
「ユノ、上がって下さい」
「チャンミン」
「行かせない」
こちらを怯えたように見た。
「どこにも行かせない。触れなくても良い。俺と付き合って、ユノ」
驚きに丸くした瞳を、覆うくらいに顔を近づけて見つめる。見かけだけなら生きていないなんて思わないあの頃のままの綺麗な瞳だった。
「あの世から呼ばれでもしてるんですか?そんな決まり事ないんでしょ?さわれなくていいから、ここにいて」
唖然とした顔で首を横に振られる。
「理由は?」
「だって、俺生きてない」
「それはもう聞きました」
更に血の気が引いた顔をされた。でも、関係なかった。
「十年だよ、ユノ。やっと通じ合って、何で離れる選択ができるんですか?」
ユノは首を横に振り続けている。でも、それもどうでも良かった。
「昨日できたことができなくなった。今すぐ俺は消えるかもしれない。今すぐじゃなくても、きっといなくなる」
「でも今はここにいる。いなくなるかもしれないし、いなくならないかもしれない。どうなるか分からない。それならここにいて」
目を見開いたまま、言葉を失っている顔を覗き込んでいる。ようやくこの深い闇の中でも幸せへの手がかりを俺は見つけられた。ユノだけがいてくれさえすればそうなった。
「そこから出ないで。俺と一緒にここで暮らそう、ユノ」
ユノはそのまま何も言わなかった。
男は、動けずにいた。そうして窓からうっすらと入り込んで来た日差しを受けた。
新しい一日の始まりに裏の家の鶏舎から鳴き声と、集落中に人の動く音が聞こえて来た。けれどその頭には新しいものなど何もなかった。あるのはこびりついた自問自答と匂いだけだった。一本残らず灰と化した線香の香りともみ合うようにして収まった悪臭の中を横切る蠅の羽音に、我に返ったように男は立ち上がった。
もうドアの外の気配はない。
何日ぶりか分からない、日が出ている時の外出は、それこそ葬式の時以来だった。自問自答は続いている。あれは妻だったのか。もし妻なら自分はどうするべきだったのか。そしてもし妻なら、何を考えても今更遅いのだろうか。
変わり果てた姿に、事実なっていたのだろうか。確かめるべく扉を開けた。眩しさと共に男は息を止めた。室内とは段違いの臭気がそこにあった。ドアの下、高さの違うタイルの貼られた外の土間に赤黒いゼラチン質のものと黄色いかすのようなものが溜まっている。そこから主な腐臭は放たれているようだった。視線を集中させると、その中を何かが蠢いている。抜け出しているのもいて、身をよじらせながらタイルに線をつけて匍匐している。蛆虫だった。男は微動だにせず見つめた。
村は、土葬だった。
集落と集落の間には山を挟んだ広大な土地がある。人口も元々少ない。定められた墓地は、年々狭まっているものの、神道をほぼ村全体が宗派としているために火葬への移行の声は未だ少なかった。
動かない男と対照に、見れば沢山の蛆が土間を伝い下りている。続かなくなった息止めの最後を飲み込み、男は鼻から空気を吸った。新鮮とは言い難い酸素が取り込まれて、男は吐き気に顏をしかめた。
そして、這う蟲の線より、その赤黒いもの自体引きずったような跡を残して、朝の喧騒とはいえ、人口の少ない、人の動きが見られない視界の中で、砂利道にどこまでも点々とついているのが見えた。これは妻の破片なのだろうか。妻はどこかにいるのだろうか。真夏の四十九日がその身体にどういう変化をもたらしているのか男は想像がついた。それより今も動いているのか、だった。
もしもこの匂いの原因が、このゼラチン質が、自分の元から消えた伴侶なら、俺は、やはり願いを叶えたことにならないだろうか。そして、自らそれを払いのけたことになるのだろうか。男の目が追って行く、遠い、その方角は墓地だ。
暫く青々とした山に続く細道を見つめて、その奥の、四十九日前に訪れた場所を瞼の裏に思い描き、男は顔を背けた。
背けた方、閉まっていた扉に無数についた赤茶色い粘液が、その幾つかが、人の手の形をしていた。黄色いかすのようなものはどうやら古い脂肪らしい。粘液に絡まりながら、塗装されたドアの表面をゆっくり落ちて行っていた。
亡くなった妻が帰ってきた。
男は落ちて行く黄色い脂肪を見つめて、意味のない呼吸を繰り返している。
それはいつまでなのだろうか。もう終わっているのだろうか。終わっているとすれば、きっと途方もない後悔がこの後に待ち受けている。でもそれは実感が追い付いていない。
そして、終わっていないとすれば、その体は、どのくらいもつことができるのだろうか。
自分は、この妻と、もう一度、やり直すことはできるのだろうか。
男はまた動けない。
ユノは、ベッドに横たわることができた。シャワーを浴びるかどうか一応聞くと、多分浴びられないからと言って、実際水はその体を通り抜けた。俺には触ることが出来ない服は、ユノも触ることが出来ないみたいだった。
「昨日はできた気がする」
とユノが言った。
「考えないで」
靴も脱げなくなっていた。それは気になったものの、床やベッドが汚れるとは到底思えなかったし、目を瞑った。ベッドには横たわっていると言うより浮かんでいるのかもしれなかった。掛け布団も彼をすり抜けた。
「本当は、ドアも通り抜けられた。でもチャンミンを、恐がらせたくなかった」
ユノとベッドに寝ている。
目の前にあのユノが、俺の恋人としている。伸ばして、黒い髪を撫でようとした手が、何も触感がなく、髪から時々端正な顔の頬まですり抜けて、ただ空中を彷徨っている。
黒い瞳は俺を見つめている。ユノも俺に手を伸ばした。長い指が、俺の顔の鼻から唇まで、おりてくる。でも俺にはその指が見えているだけ、空気の動きさえ感じない。きっとユノも何も感じていない。
けれど自分達はそれを繰り返した。
「ユノ」
「なに?」
穏やかにまどろんだ表情で俺を見ている。でもユノは眠ることはできないと言った。
「幸せです」
こちらを見つめてユノは小さく頷いた。
「俺もだよ」
俺は口角を引き上げる。
「今日は寝ない。きっとこれから睡眠は極力とらない」
「だめだよ」
「嫌だ」
俺は微笑んだまま、見つめ返している。ユノは目を悔し気に潤ませたあと、仕方ないように息をついた。
「チャンミン変わんないな」
「そうかな?」
「頑固だ」
「キスしたい」
綺麗な瞳が揺れる。俺は少し顔を近づけた。ユノは照れた笑いをした。でもその小作りで、小さな顔の方から、俺に近寄ってキスをしてきた。ずっと焦がれて来た顔としたキスだった。匂いも感触もない、ただユノだけがそこにいる、何の形もないそれだった。けれど、自分達は繰り返した。
幸福な闇の中にいた。
つづく