教会へと向かった。
チャンミンは信仰があつい方ではない。
訪れるのは、特別な儀式の時くらいなものだ。
けれど、今日は行きたいと思った。
博愛という名が、全てを受け入れる愛であるなら、その大きな懐ではおのずと正体の分からない気持ちも顔を出すのかもしれないと思ったからだ。
それほど、
チャンミンは自分が何を考えているのか分からなかった。
会話をしたのは名前を名乗った時くらいなものだ。
あとは、目を奪われた自分を当然であるかのように、微笑を浮かべられていただけ。
昨日のシウォンとの会話ももうはるか昔のようだった。
一人の人間のことを考えている。
例えば、たった一人の親友と出会った頃、チャンミンはまた明日も彼に会うことが出来て、話が出来るのかと、待ち遠しかった。
彼は普段は節制してあまり酒を飲まないけれど、本当はワインがとても好きだから、美味しいワインと、チーズやハムを、用意して待ちわびた。
その気持ちは今も変わってはいない。
けれど、それとは違った。
この頭を、思考を、占拠されてしまうような感覚を、チャンミンは持ったことがないと思った。
実際は、あるのかもしれない。
それを忘れているのかもしれない、もしくはどうしても結びつかない理由があるのかもしれない。
その理由を本当に知らないのだろうか、それとも本当は知っているから、自分は今、こうして教会へと向かっているのではないだろうか。
晴天に似つかわしくない渦の様な思惟が馬車の外を、景色を、チャンミンに見る事も忘れさせている。
町中へ入ると、いつもより雑然とした日曜日の風景がそこにあった。
まだ一昨日の夜会の余韻を引きずっているようだった。
酒瓶が石畳に転がり、恐らく一晩中飲んでいるのだろう町人が、閉まった店先で半分寝ぼけた顔で、話し込んでいる。
教会が近づくと、日曜日の今日、丁度ミサの終わるころで、数人が出口から出てきている。まだ中には、神父と話をしている人間もいるようだった。
少し思案して、チャンミンは、この町を囲うように生い茂る森と、町との出入り口のようになっている、橋の近くにある教会の方にする、と馭者に言いつけた。
馭者は目をぱちくりとさせて、「はあ」と言って馬車を向かわせた。
神父のいない教会だった。火が出てから、補修に手間取ってしまっている。年取った神父は、完成前につい最近亡くなってしまった。
それでも町の人の善意で、掃除をされ、少しずつではあるけれど補修も進められ、新しい神父を待っているのだ。
ミサのできないこの教会でも、誰かが朝早くに来たのだろう、水の入った貝殻が入口に置かれている。
チャンミンは、この古い教会は好きだった。しかし、今日は神父の説法を聞こうと思っていたのだ。それでもこうしてなるべく人のいない場所を選んでしまったのは、自分の中にある渦が人の力ではどうにもできないと、思ったからかもしれない。
沢山の鳥の巣を携えたようなヤドリギのついた落葉樹に包囲された、
長い棘のような尖塔を持つ教会へ入る。
祭壇から火のついたここは前方が黒ずんだまま、そこに新しい石をはめ込む作業がゆっくりと進められている。けれど日曜日で恐らく誰もいないはずだった。
建物自体は小さくはないものの、十字のくり抜かれた椅子も祭壇前を避けるように中央に置かれた数脚だけだ。
晴天の日差しが、ステンドグラスのとても多い上部の壁のせいで、石の床をまるで原色の絵画のように彩っている。
それを目にしながら入っていくと、チャンミンは少し胸の靄がかげをひそめたのを感じた。
その色とりどりの光景と、誰もいない静寂に心を休めながら、久しぶりに訪れた場所を、まっすぐ中央に向かわずに、迂回した。
元々椅子の並べてある中央の身廊には、両端に壁と柱で仕切られた側廊がある。
左の側廊に向かった。絵画のように映る床を踏みしめながら、チャンミンは壁やアーチ状の柱のレリーフを見ていく。彫刻の美しい柱を通り過ぎる。聞こえるのはチャンミンの靴音だけだ。壁を、また柱を、と、そこで小さく息を吸い込んだ。
見開いた瞳の中、アーチの間から見える、中央の身廊で、すぐそこで、彼が立っていた。
「おはよう。チャンミン」
アーチの下に見える微笑は、驚いているチャンミンの表情に相対するように余裕のあるものだった。
紺色のフロックコートがサテンのような光沢を放っている。下の美しい絹のシャツも、古ぼけた教会にはその姿は浮いているように見えた。
「あ……おはようございます。ユノさん」
あの冷たく感じた奥二重の目で、チャンミンを見据えて、更にふと微笑んだ。黒の瞳だけになる。チャンミンは胸が騒いだ。
「ユノでいい」
そう言ってアーチを通り抜け、チャンミンの隣に立った。
「なんでこの教会に?」
そこにいるのが事実だと自分に言い聞かせるようにチャンミンはゆっくりと声を出した。
ユノが微笑んだまま、チャンミンが歩いていたように足を進め出したので、
並んで歩く。
ユノはじっと前を見つめて他人事のように言った。
「なんでだろうね。チャンミンは?」
ここに来た原因が、自分の隣にいる。チャンミンはどう答えて良いのか分からず言葉をつまらせた。
ユノは彼の心情が分かっているように口の端を上げて前を見ているだけだ。チャンミンはその顔を見つめて、答えられず歩いていく。
側廊は終わった。
二人で立ち止まって、自分達の足元に映る絵画を見るように、壁の上部を見上げた。
ここだけ、他のステンドグラスとはデザインが異なっている。この教会にもあるのだ。
ユノは何も言わずそれを見つめている。チャンミンが言った。
「町じゅうにあるでしょう?」
「そうだね」
ユノが答えた。その顔には微笑みはなかった。
この町にはそれが至る所にあった。レリーフ、絵画、版画、ステンドグラス。穏やかな町の様子とは、対照的な、
どくろが踊り狂っている図だった。
「『死の舞踏(ダンス・マカブル)』はこの町のシンボルでもあるんです」
チャンミンは眩し気に見上げて、話し始める。色硝子を通した光は眩しくはないのだけれど、昔から知っている懐かしさが彼をそうさせている。
「黒死病が、今から500年前、この町にも訪れたそうです。そんな時代に流行ったものが残っているんです」
静かに聞いているユノに、チャンミンは呟くように続けた。
「ここは辺境にあって、森に囲まれ、今はそれが資源になり、独自の流通の発達で、のどかにもしていますが、当時はそれが、死の要塞になりました。町人は半数以上が死に絶えたと聞きます。だから、ついたあだ名は」
「ジル・ド・レの住んだ町」
一緒に口に出した男をチャンミンは、見た。
ステンドグラスを見上げていた顔が、チャンミンに向いた。
数秒、二人は見つめ合った。
「ご存じだったんですか?」
そう聞いたチャンミンから、ユノは視線を外して正面に顔をやった。
「知ってるって、ほどでもない」
その目は何か遠くを見つめている。
チャンミンはその横顔を見ると、また胸が騒ぐのを感じた。
高く、しっかりとした鼻筋。自分よりは若干低い身長でも、十分に筋肉がついていることも思わせる体つき。
自分の頭を占拠する、この感情が何なのか、覚えているのに結びつかない理由が、
そこに見えるようだった。
「ユノさん……」
思わず口に出してしまう。
「ユノでいいよ」
遠くを見つめていた視線はチャンミンの声に呼び戻されるように、焦点を定めて、でも正面を見つめたまま答える。
その声はとても淡く緩やかだった。
まるで自分が優しく食べられるような気がチャンミンにはしてくる。
「ユノ」
自分の声もとても甘いとチャンミンは思った。
眩しくはないのに、目を細める。そんなチャンミンに、ユノは顔を向けた。
そしてすっと口の端を上げる。
とても魅惑的な微笑みだった。
ユノが近づく。
チャンミンは視線を泳がせた。けれど体が、彼に近づかれたいと望んでいて、動けなかった。
音もなくチャンミンの背後に回ったユノが、その肩に微笑んだままの顔を軽く乗せた瞬間、チャンミンは思わず目蓋を一度、閉じた。
ユノの手が、十分これも質の良い焦げ茶の上着の下、絹のシャツに、その体を包むように回されていく。
肌を撫でられる感触にチャンミンは呼吸を止めた。
手は胸の中心を添うように上がる。
そして襟の一番上のボタンを簡単に開いた。
喉元を、直に撫でられた。
チャンミンは、もっと触ってほしいと自然に、顎を上げ震えた。大きな目の一部を隠していた、少し波打った黒く長い前髪が更に分けられて、整った顔全体をあらわにする。
占拠をされる。
この感覚が、結びつかなかった理由は、彼が「男」だからというものだ。
明白に分かった。
でもその「男」に、チャンミンは震えを止められなかった。
自分の思考を乗っ取った相手が、肌に触れてきたのだ。
自分のうなじの下を、首にそって上に、その唇がつけられるのを感じる。
深いため息が漏れた。
死の舞踏を通過した光に染まりながら、チャンミンは興奮を抑えられなかった。
「あ」
首に舌先をあてられた。声が漏れた。
横からうすく舐め上げられていく。
白昼の教会の中で、チャンミンははじめて覚える快感に朦朧とした。
喉元に回された手は、また一つボタンを外す。
「だめだっ」
理性と、未知の体感から、チャンミンは拒否の言葉を出すことが出来た。
同時に、その手が止まる。
「分かった。じゃあ、だめじゃないところに行こう」
耳元で囁かれた言葉に、チャンミンは、眩暈を覚えた。
つづく