「Magic 4」キュヒョン×イトゥク
核心に迫る前に、核心をつかれた俺は、「で、どうなるわけ?」と眠れない夜を過ごした。
イトゥクは酒が効いたのか何なのか、背中を向けられてるから分からなかったけど、途中から寝息が聞こえたから寝られたのだろう。
カーテンの外が明るくなって、白いTシャツの背中を見て一晩過ごした俺は、天国から一転、崖から飛び降りてしまって、ここが地獄なのかも良く分からなかった。
そして時刻は8時くらいに、イトゥクが肩を震わせた。
「寝れなかったんだ?」
後ろを向いた体勢で笑われる。「はい」と俺にはもう何も隠すものはなくて答えた。
「シャワー浴びて飯食いに行こう」
俺から浴びて、イトゥクの支度を待っている間、昨日は勢いあまってタメ口聞いたとか、色々と思い出して頭を抱え込む。
当然甘い雰囲気なんか一切ないし、このままなかったことにしてくれれば良いけど、もし俺が逆の立場で、イトゥク以外の男にそんなことされたら、やっぱりそこは放っておけないし、友人として一緒にいるのは難しい。
この驚愕な俺の恋は一か月も経たないうちに終わりを迎えるのか。
「お待たせ」
ダイニングチェアーで食卓に向かわず、リビングに向きを変えて頭を抱え込んでいた俺は、声がかかって、振り返る。
どっちもイトゥクなのに、どうしてもその姿に複雑な気持ちになりながら、眺めた。
何かが塗られた頬の下でえくぼが出来る。
やっぱり綺麗だと思った。
「まだ酒抜けないよ」
朝でも、昼でも関係なく、イトゥクは女装をするのだろう。
アスファルトを踏むクリーム色のかかとを見下ろしながら、後ろからついて行く。
お互い長い丈のダウンコートを着ていても、イトゥクの女装は出ているところまで全部だから、大体誰もが振り返る。
「俺は抜けました。そんなに飲んでもなかったんで」
ここまで来たら酒のせいになんか出来ないし、したくない。
イトゥクが脚を止めて振り返った。亜麻色の髪が天気の良い朝に光っている。
「なんか買って、海で食おうか」
行きに開いていたパン屋で、パンとボトルのジュースを買って、いつもの防波堤に来た。
海に来たけど、海を背にして、ロープのように横に張られた金属のポールに腰をかけて食べた。
「春だなあ」
卵の輪切りが乗ったパンを食べながらイトゥクが見廻して言った。
「寒いですけどね」
俺は温かいスープが飲みたいと思った。声を出して笑われた。
「でも、もう三月だろ」
ジュースを飲む横顔を見ながら、昨日どうにかして口にもすれば良かった、と自暴自棄になる。
やけになって、やたらねちゃねちゃするパンにかぶりつく。このパンはまずい。
「そうですね」
「早く食べ終わらないと、かもめがお前のパン狙ってるぞ」
いつの間にか後ろをかもめの群れが飛んでいて、人間以外の動物が苦手な俺は、背中を丸めて、まずいパンの残りを口に押し込んだ。
髪を揺らしながら、イトゥクは笑ってジュースを飲んでいる。
「小学生の時、良く海に連れて来て貰ってたけど、俺の親父も、かもめ苦手だったよ」
まだ後ろに警戒しながら、「そうですか」と返して俺もジュースで流し込んだ。
「じゃあ、行くか。送るよ」
イトゥクがボトルを、女物のバッグに入れて立ち上がった。俺は飲んでいた手を止めて座ったまま、見上げた。
心臓がばくばくとし出した。紺色のダウンコートの下に冷や汗が出てくる。
「もっとゆっくりしても、大丈夫ですけど」
「もう食べたろ?バス停まで送るよ」
ここで無理は言えないし、微笑んでいるイトゥクに従って、ぼうっと腰を上げた。
向こうに見えるバス停まで、並んで歩き始める。
嫌な予感がする。
「あの、今度、作曲したの聞かせて下さい」
苦笑する顔を横目で伺う。
「もうどこに行ったか分からないし」
今度はないよ。と言われて、俺は足を止めた。
イトゥクもそれに合わせて止まった。二人とも顔だけ向けて、見つめ合った。
「……何で、今度はないんですか?」
鼓動が酷い。倒れそうだ。
「理由分かってるだろ」
「俺が、男だからですか?」
イトゥクが一瞬口をつぐんだ。食事で塗られていた何かが取れてしまっても、唇は艶々していた。周りに人がいない海沿いの通りでも、こんな明るい中では、その姿は異様に見えた。
「お前が、女でもだよ」
俺は顔をしかめる。
「……何で?」
「誰でも、駄目なんだよ」
呟いた表情が悲しそうに歪んで、俺は眉を寄せた。今まで付き合って来た彼女達よりも綺麗にカールされた睫毛の目元が震えている。
「……どっかカフェでも」
「入らない。お前とはもう会わない」
胸が痛くて、眩暈がする。とうとう俺は振られている。
「俺、好きとか言わないんで」
「女装仲間としてなら、会っていいよ」
震える目のまま、にやりと口の端を上げられた。
「……それでも、良いんで」
絶対嫌だけど。
「嘘つけよ。お前のためにも、俺のためにも、これからは会わない方が良い」
「嫌です」
「嫌でも、もう関わらないでくれ!」
いきなり強く言われて、見つめ合っていた瞳を潤まされて、息を止めた。
「俺は、この格好さえ出来れば楽しく生きられるんだよ」
イトゥクが俯いた。アスファルトに小さな染みが出来た。
「これがないと、重くて動けなくなる」
染みがぽたぽたと拡がった。俺は目を見開いて、それを見つめた。
「どうしようもない……親父だったのに」
土下座するようにイトゥクが座り込んだ。その亜麻色の後頭部を見ながら、急に話題を変えられたことにも、ついて行けず眉をひそめる。
「借金作って、俺が働いて返すしかなくて、それなのにやっと返し終わったら、酒飲み過ぎて死んじゃった」
唾を飲みこんだ俺の足元で、長い髪が潮風に揺れている。
「連絡も全然しなかったのに。不器用で、本当にどうしようもない父親だったのに。いなくなったら、重くて重くて、体が動かなくなった。責任押し付けられたと思ってたのに、男親って不思議だよ。あんなんでも俺はどこか頼ってたんだ」
時々嗚咽が漏らされる中、唾液やら色んなものが、地面に落ちたり、きらきら光っている偽物の髪にもひっついていく。後ろのハイヒールは脱げかけている。
突っ立ったまま、俺は呆然と眺めていた。
涙を拭おうとするから、その手に貼り付いて、綺麗に巻かれていた髪はぐしゃぐしゃと絡んだ。
「親父がいなくて、重くて仕方ないんだ。でも、この姿になると楽になるんだ。俺じゃない、別人になって、軽くなる」
良く見たら、ハイヒールのかかとがすり減っている。出会った時は、そんなことなかった気がするけど。
男の体重を支えるには、一体どのくらいの頻度でそれは買い替えられるのだろう。
「これさえあれば、俺はすごく軽くなる」
太い男の指に、長い亜麻色の髪が濡れながら、一層絡んではりついて行く。
だから、念入りにされた女装を解くように……
――この魔法を解いて。
イトゥクの心の声が聞こえても、俺は言葉が出ない。
だってこんなの、大学生の俺には荷が重すぎる。ただでさえ男との恋は初心者なのに。
女相手にだって、悪いけど逃げるだろう。
俺は立ち尽くして、泣き崩れるイトゥクをしばらく見つめたあと、でも、屈んでその頭に手を置いた。それから絡んだ毛を少し梳いた。
涙と鼻水で濡れた顔が上がる。
やっぱり綺麗だと思った。
だけど、イトゥクは、
「お前じゃ駄目なんだよ。何されても、お前とは今後会うつもりないから」
と言った。俺は悲しくて、つぐんだ口をへの字に曲げる。
「キュヒョン。もう行け」
首を横に振る。俺の方も目が潤んできた。
潮風が俺達の間をすり抜けていって、それと一緒に、イトゥクの背後をバスが通り過ぎた。
「お前が行かないなら、俺が行く」
地面に置かれたバッグを持って、立ち上がったイトゥクが走り出した。慌てて俺も追いかける。
人を降ろしながら、停車しているバスに、イトゥクが乗り込もうとして、すぐ後ろにいた俺を車内に押し入れた。
振り向いた俺に「連絡もするなよ」と言って、走り出した。
呆気にとられたまま、「お金!」と運転手に言われながら閉まっていくドアの外で、タクシーを捕まえて乗り込む姿を、見えなくなるまで目で追っていた。
つづく
*フィクションですので、ご理解下さいますとありがたいです。