「麒麟9」キリン×リョウク
「じゃあ僕から行くね、できるだけ早く渡ってきて」
キリンはそう言うと、ざぶんと水に入った。
固まっている僕を余所に五メートルはある川幅をすいすいと泳いでいく。
首だけしか見えないけど、キリンが泳いでるの初めて見た。
僕も行かないと、と思うんだけど。
ぬかるんだ地面に埋まって水に殆どつかった丸太の前で立ち竦む。
その時、
背後の草むらが音を立てた。
僕は後ろを振り向く。
背の高い草を分けて、
大きなカバが出てきた。
目を見開いた僕の前で、口をぱかっと開けた。
おううっと唸ってから、こちらに向かって、突進してきた。
「うわあっ!!!」
声にならない声を上げて、僕はゴロゴロする橋を急ぎ足で渡る。
カバは勢いよくしぶきをあげて川に入った。
僕が渡った後を、大きな口が噛みついて、ごろごろする橋が揺れる。
キリンが振り返って僕に向かって来る。
「だめっ!来るなっ!!」
僕はキリンとカバに向かって叫んだ。
途中でこけそうになる。でも渡り続ける。ここで落ちても止まっても、僕は無事ではいられない。
半分以上来てもカバは噛み続けてくる。キリンが向こう岸に上がったのが見えた。
岸に近くなって、カバが攻撃をやめた。
僕はほっとしながらも渡り続けた。
それでもカバを気にして、あと少しと言うところで、
カバと反対側の水の中から、大きなものが現れる。まるで牙のような歯をした2m位の魚が口を開けて飛びついてきた。
僕は固まった。
その瞬間、その巨大魚の横面が何かで蹴られて、魚は水面から消えた。
「走って」
後ろ脚を上げたまま、キリンが僕に向かって言う。
川辺を抜け、また獣道に入るまで、僕達は走った。
キリンは僕に合わせて走ってくれた。
「もういいかも」
それを聞いて、息を切らせながら僕はへたり込んだ。
「カバ、一度襲って来るとしつこいんだ」
キリンは全然息を切らしていない。
そもそも息を切らすのだろうか。
僕は立てない。
ライブ以外で走るのなんて久しぶりで。
汗が流れるのを拭えずに、呼吸をするだけ。
足を包んでいた葉っぱも破けてひりひりして、肺は痛い。
すると、
へたりこんで地面を見ていた僕を覗き込んでいた顔が、目の前から消えた。
背中に柔らかいものがあたった。
優しくさすられている。
息が整って、あちこちの痛みも和らいできた。
「ありがとう」
僕は面を上げた。
僕の目の前に、顔が来た。
「恐かったでしょう」
そう言った、キリンを見る。
実は僕は。
色んなコンプレックスがある。
人はみんなそうだと思うけど。
僕にも色んな。
言えないほど、色んな。
言えないのは、言っても仕方がないから。
言えば言うほどみじめになるから。
でもそうしていると、普段は言えないことが出てきた。
例えば。
弱音。
「すごく、恐かった。……死ぬかと、思った」
口に出した僕を見つめている。
「もう、ダメかなって思った。ここで終わりだって思った」
黒い瞳が、僕を覗いている。
「酷いよって。僕こんなに一生懸命やってるのに、やっぱり僕には運が向かないんだっ
て」
キリンが僕を見ている。
「一生懸命やったって、僕にはダメなことばかり」
これはさっきの話じゃない。
だから涙が出てきた。
「みんなが羨ましい。すごく良くできる人たちばっかりで、みんな優しいけど、つらい」
ぽろぽろと零れて来る。
僕は何を言ってるんだろう、そんなことも思えないほど、
僕はただ、思い浮かんだ言葉だけを口に出していた。
「だからああいうところで、やられちゃうんだって」
僕を見ていた顔が、再び正面から消えた。
何も言わず泣いていると、
体がぐるりと包まれた。
また目の前に顔が来る。
「やられてないし、やられそうになったら、助けてあげる」
柔らかくて、温かいものに包まれながら、
僕は声を上げて泣いていた。
サバンナの中の、ジャングルの、
獣道で。
つづく